2012年10月09日

1951年 補導連盟事件 〜韓国最大のタブーと言われた20万人の大虐殺〜

韓国政府が触れられたくない韓国近代史上最大のタブーをご存知だろうか。かつてはデマや作り話とも言われ、韓国政府が巧妙に隠蔽し続けていた大虐殺事件は本当にあった。自国民への武力による粛清と無差別な殺戮、補導連盟事件の真実に追った衝撃ドキュメント映像。

保導連盟事件(ほどうれんめいじけん)とは、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争の最中に、当時、韓国の大統領であった李承晩の命令によって韓国軍と警察が、共産主義からの転向者を再教育するための統制組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人以上を粛清のため殺害したとされる大事件である。

第二次世界大戦直後、朝鮮半島の抗日勢力においては民族主義の潮流が衰退し、共産主義が各地で主流を占めつつあった。これに対して、李承晩率いる大韓民国政府はストライキや武装闘争を挑む南朝鮮労働党を中心とする共産主義勢力に弾圧を開始した。
1948年12月1日に国家保安法を制定。1949年6月5日には要監視対象者を統制するため思想保護観察団体「国民保導連盟」なる組織を立ち上げ、これを全国に拡大していった。

国民保導連盟には、共産主義から転向した党員が登録されたほか、抵抗を続ける党員の家族や同調者に対しても登録すれば共産主義者として処罰しないとして加盟が勧められた。また、国民保導連盟に登録すると食料配給がスムーズに行われたため、食料目当てに登録した人々も多かったといわれ、警察や体制に協力する民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係な人物を登録することもあったという。

1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がソウルに侵攻。6月27日、李承晩大統領は国民保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令し、同日中にソウルを脱出した。韓国軍と警察は南へ後退する一方、国民保導連盟に登録されていた者を危険な反乱分子と見なして大虐殺を行った。
虐殺は韓国各地で行われ、北朝鮮軍の勢力が及ばない釜山・馬山・済州島でも確認されており、地方の村々では無実の村民が集められ、機銃掃射によって数十人から数百人単位が殺害されたとの証言も多く残っている。

その後、韓国では軍事政権下で発生したこの事件に触れることをタブー視し、「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」としていた。また、事件自体が語られることも無かったため、一般人にはほとんど知られておらず時間とともに風化しつつあった。

2003年に盧武鉉政権が発足すると韓国政府は保導連盟事件の存在を認め、2008年には犠牲者追悼式に送ったメッセージにおいて国家権力の不法行為に対して包括的な形で謝罪を表明したが、李明博政権に代わってからは、真相の究明や責任の追及、遺族への謝罪は一向に進んでいない。
なお、冷戦中に「赤狩り」と呼ばれる共産党およびその支持者への弾圧は世界各地で行われたが、韓国では1948年から1954年頃までに120万人以上が殺害されたとされている。

<1951年 補導連盟事件 〜韓国最大のタブーと言われた20万人の大虐殺〜 動画1>


<1951年 補導連盟事件 〜韓国最大のタブーと言われた20万人の大虐殺〜 動画2>


<1951年 補導連盟事件 〜韓国最大のタブーと言われた20万人の大虐殺〜 動画3>


<1951年 補導連盟事件 〜韓国最大のタブーと言われた20万人の大虐殺〜 動画4>
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2012年09月18日

1989年 六四天安門事件 〜中国政府が行った武力弾圧の真実〜

近年マスコミではほとんど報道されなくなった中国の黒歴史のひとつとされる天安門事件。中国共産党独裁と流血の裏にある深い闇。あの時、中国でいったい何が起こっていたのか?六四天安門事件の真実を生々しく伝える歴史的な衝撃事件映像。

六四天安門事件(ろくよんてんあんもんじけん)は、1989年6月4日、同年4月の胡耀邦の死をきっかけにして、中華人民共和国の北京市にある天安門広場に中国の民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対して、中国人民解放軍が市民に向けて無差別発砲や戦車や装甲車で轢き殺すなどの武力弾圧行い、多数の死傷者が出た事件である。

1989年4月15日、当時、言論の自由化を推進し国民からの支持を集めていた中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦が死去。
それから数日の間、民主化推進に共感する学生たちにより胡耀邦の死を悼む小規模な追悼集会が各地で行われたが、これが火種となり、北京市内では大学生らを中心に1万人規模のデモに発展、デモ隊の一部は天安門広場で座り込みのストライキを開始した。
こうして天安門広場で始まった反政府運動は、やがて上海、西安、長沙、南京など中国国内の大都市に波及してゆく。

翌5月、北京市内では民主化を求める10万人規模のデモや集会が頻繁に行われるようになり、これに参加しようと地方の学生らが北京へ集結し始める。
混乱の最中、5月15日にはペレストロイカを推奨していたソ連のゴルバチョフが北京を公式訪問し、ケ小平ら共産党首脳部との会談を通じて中ソ関係正常化を確認。
これはゴルバチョフのシナリオ通りであったが、外国メディアはソ連の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と中国国内の民主化運動を絡めて報道し、結果的に中国共産党にとっては都合の悪いものとなった。

この頃、中国共産党内では、保守派の幹部と民主化を求める学生らの意見に同情的な改革派との対立が表面化、デモ収束のための戒厳令の発令について話し合いが行われたが、両派の意見が分かれ結論が出なかったため、最高権力者であるケ小平らの判断により、5月19日に北京市内に戒厳令が敷かれることが決定された。

戒厳令の布告後、マスコミには中国共産党によって厳しい報道規制が行われ、西側諸国のテレビ局の回線は次々と遮断されていったが、海外のマスコミはビデオ録画中継と電話による生中継を行うなど粘り強く取材を続け、中国国内の状況は海外でもトップニュースとして扱われるようになっていった。

6月に入ると、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が海外メディアによって報じられ、もはや中国の混乱は誰もが知るところとなる。
そして、1989年6月4日、完全武装した人民解放軍の部隊が天安門広場などの民主化を要求する民衆に対して投入された。数で勝る民衆はこれに激しく抵抗し、一旦は人民解放軍の動きを阻止するが、あくまでも命令に忠実な兵士達は、市民へ無差別発砲を行い武力弾圧によりデモ隊を鎮圧した。

この事件による死者は諸説があり、中国政府の発表では319人とされているが、実際の死傷者数は数千人から数万人との説もあり、正確な情報は未だに明らかになってはいない。
一部情報ではデモの鎮圧後に人民解放軍の手によって多数の死体が集められ焼却されたという。また、中国共産党の粛清を恐れ、300名以上の活動家が海外に亡命していることからも、弾圧の厳しさがうかがい知れる。

さらに残念な事に、この痛ましい事件の後、中国政府は反日教育を一段と強化している。これは国内の不満を国外へ向け、過激な反日デモを容認する事によりガス抜きをさせるいう形を作る意図があるとも言われている。

<1989年 六四天安門事件〜中国政府が行った武力弾圧の真実〜 動画1>


<1989年 六四天安門事件〜中国政府が行った武力弾圧の真実〜 動画2>


<1989年 六四天安門事件〜中国政府が行った武力弾圧の真実〜 動画3>


<1989年 六四天安門事件 亡くなった学生や市民達の遺体写真>
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2012年09月05日

2009年 中国・中央電視台電視文化センターの大火災

中国・北京市の高層ビルで発生した大火災の様子をとらえた衝撃の火災映像。
2009年2月9日午後8時27分頃、北京市内にて数ヵ月後の完成に向けて建設中であった中央電視台電視文化センタービル(CCTV)の屋上付近で火災が発生。消火には54台もの消防車が出動したが、ビルは約6時間にわたって燃え続け全焼した。炎上中、現場付近の道路は公安警察により封鎖され、多くの車と野次馬で一時混乱に陥った。
火災の原因については、当初、旧正月(春節)を祝う打ち上げ花火が引火したものとされていたが、火災消火後に消防士がビルの屋上で爆竹の残がいを発見したとマスコミが報道、裁判では工事事務所の関係者21人が有罪判決を受けた。なお、この火災により消防士1人が死亡、7名が負傷した。

<2009年 中国・中央電視台電視文化センターの大火災 火災前の花火の動画>


<2009年 中国・中央電視台電視文化センターの大火災 火災延焼中の動画1>


<2009年 中国・中央電視台電視文化センターの大火災 火災延焼中の動画2>


<2009年 中国・中央電視台電視文化センターの大火災 消火後翌朝の動画>
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2012年09月04日

マタドールの顔面を牛の角が貫通する瞬間

一瞬のミスで運命が変わる。闘牛士の顔面に牛の巨大な角が突き刺さる瞬間をとらえた衝撃事故映像。ご覧の通り、恐るべし角の破壊力。当たり所が悪ければ人間なんて即死だ。まあ、牛の立場としては敵をやっつけなければ、自分が殺されてしまうわけで、牛に罪はない。

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2012年08月22日

2012年 シリア政府軍の銃撃で死亡したジャーナリスト山本美香が撮影した最後の映像(全録)

激しい内戦が続くシリアを取材中に銃撃された日本人女性ジャーナリスト山本美香さんが撮影した最後の映像。
2012年8月20日、シリア北部の都市アレッポにて独立系通信社ジャパンプレスの日本人女性ジャーナリスト、山本美香さん(45)が政府軍と反対派との戦闘に巻き込まれ死亡した。山本美香さんはシリア反対派勢力の自由シリア軍に同行、アレッポ市内を取材中にアサド政権派の兵士から銃撃を受けたものとみられている。山本美香さんは搬送先の病院で死亡が確認された後、遺体は隣国トルコ南部キリスに搬送され、トルコ当局に引き渡された。
また、山本美香さんの訃報とともに、自由シリア軍が撮影したとされる山本美香さんとみられる遺体の映像がYouYubeに投稿された。この動画の中で自由シリア軍の兵士は、「アサド政権側の攻撃によりアレッポで取材していた日本人が殺害された。我々は外国人記者のシリア来訪を歓迎するが、身の安全は保証できない。」などと述べている。
山本美香さんはイラク、アフガニスタン、コソボなど危険な紛争地域を数多く取材したことで知られ、2003年には優れた報道と国際理解に貢献したジャーナリストに贈られる「ボーン・上田記念国際記者賞」特別賞に選出されている。

山本美香さんのご冥福をお祈りいたします。

<2012年 シリア政府軍の銃撃で死亡したジャーナリスト山本美香が撮影した最後の映像 被弾の瞬間までの動画全録>


<2012年 シリア政府軍の銃撃で死亡したジャーナリスト山本美香が撮影した最後の映像 被弾後の遺体動画1>


<2012年 シリア政府軍の銃撃で死亡したジャーナリスト山本美香が撮影した最後の映像 被弾後の遺体動画2>


<2012年 シリア政府軍の銃撃で死亡したジャーナリスト山本美香が撮影した最後の映像 被弾後の遺体動画3>
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